![]() 私たちがセンターを訪れたのは9月。この時期サルたちは山の奥に木の実などを採りに行っているため、センターは静かだった。山の上で鳶が輪を描きながら飛んでいる。小鳥たちのさえずりが聞こえ、野生のシカもいる。すぐそばでは波の音も聞こえている。 私たちがセンターに着くとすぐ、延原さんが出迎えてくれた。簡単な自己紹介のあと、私たちは早速延原さんに取材をさせてもらうことにした。 ![]() モンキーセンターでは餌付けを始めて以来、奇形ザルの発生率が年平均15%という状態が現在まで続いている。一番発生率が高かった年は40%にも及んだ。 もちろん自然に発生することもあるが、自然発生率は1%未満という。 なかでも四肢(手・足・指)奇形(欠損)が99%である。指の奇形は自然界で生きてゆくことができるが、手や足の奇形を持つものは自然の中で生きてゆくことは難しい。 奇形ザルのなかでも重度の障害をもって生まれた「コータ」(後章で詳細掲載)や、9本指のサル(ミラーフット)、「ありがとう 大五郎」(写真=大谷秀之 文=大谷淳子 新潮社)という本の中に出てくる大五郎も、コータと同じように四肢切断という障害を持っていたサルで、みんなここのセンターで生まれた。 現在も重度の奇形を持つサルが1頭いるという。 原因は、エサに残留していた有機塩素系農薬ではないかといわれている。サルたちは小麦と大豆を主に、イモや果物などを食べている。なかでも大豆、小麦などに残留していたと考えられる農薬(ヘプタクロール・エポキシド、クロルデン類)が障害を持つ子を産んだ母ザルの内臓にかなり高い濃度で検出された。 ニホンザルの奇形問題は淡路だけでなく、餌付けされた全国39群のうち、20群に発生していて、餌付け後3〜4年で発生するという共通点も見られた。 ![]() 奇形ザルの発生の原因とされている有機塩素系農薬は日本においてすでに使用禁止になっている。 にもかかわらず、未だにその害が減少しないのはどういうことだろうか。 実は使用禁止になった薬品はなくなったわけではないのだ。これらの農薬は、現在も日本で製造されているという。使用禁止になっている薬品など、作ってどうするのかといえば、輸出しているのだ。それらの農薬に対しての規制のないアジア各国へ・・・。 そして、その農薬を今でも使用した食品はサルたちのエサだけではなく、私たち人間の食卓に平然と並んでいる。日本からアジアに農薬を輸出し、その農薬を使った食品を日本へ輸入してくる、という「ブーメラン現象」が起こっている。 「サルたちの奇形を防ぐために具体的にどのように改善をしたのか」という私たちの問いに、延原さんは意外な答えを(いや、私たちの予測が甘い考えだったのだろう。)返してくださった。「知り合いに無農薬野菜を作ってもらった。」そういった答えを予測していた私たちは、延原さんの返答に戸惑った。 「無農薬野菜に変えたということはない。 昔と今では入るルートが違い、農薬自体も変化している。 10年くらい前から小麦は国産の物を使用しているが、大豆は輸入に頼っている。 原因は大豆にあるのかもしれない。 無農薬は経済的に難しいということもあるが、それ以前にサルたちの食べているものと私たちの食べているものは全く同じである。 サル用にいい(無農薬の)エサをつくったところで、解決にはならない。 しかし実際、農家の人たちは出荷用には農薬をたくさん使っているが、自家用には無農薬で作られているところも多いという。」 自家用は無農薬にしなくてはならないほど、農薬は少なくとも「体にいい物」ではない。かといって無農薬で生きていこうとするにはあまりにも私たちの周りの食品が農薬漬けになってしまっている。 「人間には奇形も何もでていないではないか」と思われているかもしれないが、サルと人間では生物としての時間感覚が違う。ヒトはサルの約5倍の時間をかけて成長する。単純計算するとサルが5年で発病するものは、ヒトでは25年かかることになる。すでにヒトはその影響をうけているかもしれない。サルでは催奇形性として起こる薬害は、ヒトでは発ガン性として発生するのではないかと考えられている。 しかし、こういった問題がすでにテレビや新聞などで報じられたにもかかわらず、人々の農薬に対する危機感は依然低いままである。 当時の社会には環境問題はイメージが悪いというレッテルがあり、奇形ザルの発生から環境問題運動を始めた所長にも、当時は周りの反対があったという。 そして現代、社会はこの問題を放りっぱなしにしている。 ![]() ![]() 彼は生まれつき背骨がS字状にねじれ、手足がなく、母ザルの乳を上手に飲むことができずにいた。何度も山の斜面を転げ落ちて傷だらけになっていたコータ君を中橋さんは育てることにした。コータ君はとてもいたずらっ子で不便な体を転がしてはしゃぎ回っていたという。何をする時も中橋さんと一緒。「コータ」とは、「幸多かれ」という願いが込められて付けられた名前だ。 よくヒキツケを起こして瀕死状態になったこともあったが、9年半の命を生きた。9歳半、人間でいえば27・8歳である。 「9年半生きられたのは奇跡に近いと言われたが…」中橋さんには後悔が残っていた。「サルの餌付けなどしなければよかった。」確かに、餌付けをしなければ奇形ザルは生まれなかったかもしれない。 しかし、中橋さんが餌付けをしたことで、淡路のニホンザルが絶滅しなかったのだ。それにコータ君が中橋さんに会えた。コータ君は「移動する」ということにおいて、他のサルたちに劣っていた。けれどもそれは決して「かわいそう」な一生ではなかったと思う。 彼は中橋さんと出会い、たくさんの幸せな時間を過ごすことができたはずだ。 ひどい野猿公園では「奇形ザルはイメージダウンにつながる」という理由で密かに殺したりしていた所もあったのだ。 ![]() では、農薬を排除してしまえば、この奇形ザル問題は解決するのか。 答えは「NO」だ。 確かに原因究明は必要だ。 しかし一番の問題は「ヒトの心」にある、と中橋さんは言われた。 「奇形」を「奇形」と見なし、排除しようとする人の心が変わらなければ問題は解決しない。 延原さんは、私たちにサルたちの写真を見せてくださった。 「サルたちは奇形のないサルが奇形のあるサルを手伝いながら、助け合って社会を形成しています。」 はたして、人間はどうだろうか。人間社会の中でも近年「バリアフリー」とよく言われているが、実際にはまだまだ未熟なものである。みんなが利己的な考えで互いに助け合おうとしないのが現実ではないだろうか。 奇形ザルを「イメージダウン」と考えるその心こそ、本当の病に冒されているのではないか。 誰にでも、できないことや苦手なことがある。 それがコータ君のように「移動すること」だったり、「見ること」、「聞くこと」、「話すこと」、それに「勉強すること」、「歌うこと」だったり。それはひとつの「個性」ではないだろうか。 同じ人はいない、みんなそれぞれが違って当たり前なのだ。「障害」という言い方をするから特別に感じるのかもしれないが障害を持っていることは普通のことなのだ。 車イスに乗っている人を障害者というのなら、メガネやコンタクトをしている人も障害者だ。 しかし、メガネやコンタクトをしている人たちを障害者と呼ぶことはほとんどない。みんなそれぞれ出来ないことがあるのだから、自分に出来ることをしていけばいい。どうして、障害を持つことがイメージダウンになどなり得ようか。 そして、もうひとつの問題は人間の「満足を知らない心」にある。きれいで、虫の付いていない野菜を求めて、農薬漬けで虫も寄りつかない野菜を食卓に並べている。 そしてその農薬を開発するために、たくさんの動物実験をする。いまだに、マウスやラットを使った実験は正確であると言われ、それが世界的に認められている。サリドマイドは動物実験では安全と言われたのではなかったのか。その結果、人間に大きな影響を及ぼしたのではなかったのか。どうして人間と違った性質を持った動物ででた実験結果を人間に当てはめるのか。たくさんの動物実験を行って、生き物を殺す薬を作って、人間にだけ害が及ばないわけがない。狂牛病もそうだ。「人間は草しか食べない牛に骨まで食わせて贅沢したいのか?」中橋さんは怒ったように言われた。牛を太らせるための穀物を人間が食べれば、食糧難は解決するという。人間の贅沢により、牛は本来食べることのない、穀物を食わされ、仲間の肉骨粉を食わされた。その自然の摂理に従わない人間に対してついに自然の怒りが爆発した。狂牛病はその象徴ではないだろうか。 ![]() ![]() 「地域行政をあげて、野生ザルを山へ帰すためのモデルづくりをすべきだ。個体数などの管理をする。人間がそれを管理することは本来良くないのかもしれない。しかし、サルたちを管理しておかないと、周りの農家などが被害を受ける。そうなると理解を得ることが難しい。これは地域全体で動かなければできないのだ。そのためのメカニズムをそろえないと、国は動かない。現在も行政から「共存できる広場づくりへの協力」は言われているが、国と市でも考え方が違う、農家はどうするのか、など問題がある。少しずつ広げていくためには、まず町がこの問題に対して動き地域活性化を図る、そしてそれを市へ、県へ、国へと進んでいく必要があるのだ。 現代について思うことは、『人の意志の大切さ』だ。「これ以上豊かにも便利にもならなくていい」という考え方をして、需要を減らす。 自分から環境問題に関わる気持ちがないことが全ての環境問題の原因だ。 行政は、なんとかしようとせず、「どうしようもない」で終わってしまう。そうではなく、もっと積極的にこれらの問題に取り組んでほしい。 ![]() 私たちが訪れたときサルはいなかったが、センターの中を案内してもらうことができた。少しひんやりとした風が吹き、木の匂いがした。すぐそばに海を見ながら思った。「サルたちはこんなにもきれいな景色をいつも眺めているのだろう。」と。 そしてこの景色を失いたくないと思った。 この山は昔、人間が木炭を作るために山に入っていたときは調和がとれていたが、人間が枝を払わなくなってから、太陽の光が地面に届かず、土が痩せてしまったそうだ。人間は決して自然から切り離された存在ではない。人間がルールを守っている限り、自然は我々を受け入れてくれていたのだ。 我々はもう一度、その頃に戻ることができるだろうか。 私的なことではあるが、私は子供の頃に心臓の手術を受けた。その手術の傷は、私にとって「障害者」と言われるきっかけとなったものである。しかしそれと同時に、「それは生きている証だ。障害を持っていても、お前は大切な親友だ。」といってくれた親友の存在を教えてくれ、障害について考えさせてくれるものでもあった。どんな姿でも、何が出来て、何が出来なくても、その命の存在そのものこそが価値のあるものなのだ。たくさんの人や動物たちと出会い、生きてゆけることが本当にすばらしいことなのである。 今回の取材を通して、また新たな出会いがあった。そして仲間と助け合うことを知った。そう、「自分が出来ないことは仲間が助けてくれる。仲間が出来ないことで自分が出来ることは助ける。」それを体験することが出来た。 モンキーセンターを離れるとき、少し寂しさを感じた。本当に充実したお話を聞くことが出来て嬉しかった。これからまた活動していくときに、今回の事を生かすことが出来るようにしたい。 最後になりましたが、今回取材をさせていただいた、淡路島モンキーセンターの中橋実さん、私たちの不躾な質問に丁寧に答えてくださった延原利和さん、本当にありがとうございました。 |
(写真資料提供:淡路島モンキーセンター) アニマルズ&ネイチャーセクション スタッフ 磯野 ユキ |