「第4回日本レスキュー協会動物福祉勉強会」
平成15年6月22日 開催
![]() 講演者/大阪大学技術専門職員 佐藤良夫氏 *日本の実験動物達のために命を捧げたイギリス人女性「アン・ロス」との出会いにより、実験動物の福祉に半生を費やしてこられた佐藤氏による講演です。また、通常実験後は殺処分されることがほとんどである実験動物を、無駄に殺すことを無くしていこうと御尽力なさってもおり、今回は日本レスキュー協会の元で、セラピードックとして第二のスタートをきった、元実験動物犬「ゆきちゃん」についてもお話しして下さいました。 より多くの方々に現状を知ってもらいたいと、佐藤さん御本人の御好意により、講演内容を当サイトで御紹介させて頂くことを御許可頂きましたので、特別にこの場で公開させて頂きます。 (佐藤氏とアン・ロスさんについては、当サイトの「動物達の現状」の動物実験のページでも御紹介しております。詳細はそちらを御覧下さい。) ![]() 講演者/プラーナ代表 岡居 |
ただいま司会の方からご紹介を預かりました大阪大学歯学部の佐藤で御座います。 さて、本日は動物福祉に関する勉強会と言う事で、日本レスキュー協会さんから、ご依頼を受けて参りました。昨年の11月にも英国人アニマルテクニシャンのアンについてお話させて頂いたことがあり、今回で二回目です。アンについては、すでに私のHPを通じてご存知の方もいらっしゃると思いますが、ご存知の無い方に、今日のお話の中でも触れさせて頂きます。 今回は日本レスキュー協会さんに貰って頂いた実験犬、ゆきちゃんのお話も含めて、大学で実験動物に関わって来た私の38年間の歴史を紐解いて、振り返りながら、皆様に実験動物福祉を考えて頂く機会になれば幸いだと思います。それで、最初にお断りしておきたいのは私は動物愛護だとか、安楽死だとか言う一方的な言葉は嫌いです。ですから、今日の話にはすべて、動物福祉や処分と言う言葉を使わせて頂きたいと思います。 前回はフリーハンドでしゃべって、お伝えしたいことの半分も出来なかったので、今回は正確を期する為に、失礼かと思いますが、書いてきたものを読ませて頂きます。 東京オリンピックの二年後、それまで勤めていた会社を退職して、長兄が勤務する大阪大学医学部付属病院に実験助手として働くことになりました。仕事内容は動物実験のお手伝いと言うことでしたが、最初は放射線科の地下実験室で飼育されている犬の世話でありました。半減期の短い放射性物質を投与された犬を散歩させて、そのつど、排便した糞を持ち帰って、特殊な装置で糞便中に取り込まれた放射性物質の排出量を調べるのです。 当時は放射性物質の取り扱いもそれほど規制されておりませんでしたが、現在であれば病院の中庭で排便させている犬の糞便中にそのような物質が取り込まれていると判っただけでも問題になったでしょう。 その仕事を一年ばかり続けていいかげんにうんざりしていると、向かいにある外科の実験室で研究しているドクターから「どうや、こちらで仕事しないか?」と声がかかりました。毎日、心臓移植に関係した基礎的な実験が繰り返されており、放射線科に比べて、何かと派手で、私はすぐにオッケーの返事をしました。とは言っても長兄の立場もあるので、一応、放射線科のドクターと外科のドクターの話し合いで、異動することになりました。 給料もそれまでの一ヶ月7千円から8千円にアップされたので、一生懸命働きました。動物実験の準備から術中の手伝い、後片付けを主体に心疾患で手術を余儀なくされた患者さんに移植するための大動脈弁を法医学教室や病理教室のご遺体から貰って来て、綺麗にトリミングして、冷蔵庫に保管する役目から、患者さんの手術中の血液ガス測定など、本当に身体が壊れるのではないかと言うくらい働きました。すべてが同時進行で行われるため、複数のドクターから声がかかり、実験中でも許可を貰って、手術室に服を着替えて入室しました。朝から実験用の犬を10頭、屋上の飼育室から地下の実験室に運搬して、2頭を残し全部、輸血用の血液採取として、8頭ぶんの全採血を行った後、ドナーとレシピエント用の犬は麻酔をかけ、人口呼吸器をセットして、いつでもスタンバイの状況にしておくのです。ドクターが忙しい時は、開胸手術まで行い、移植実験が可能な状態にしておき、研究者の登場を待ちました。こういう準備段階のおかげで、いつのまにか最先端の技術を習得していったのですが、その頃は当たり前の職務として、まったく意識しておりませんでした。夜は仕事が終わってから、三年遅れの学生として、高校の夜間部で勉強し、それが挫折することなく、4年間続きました。高校卒業を間近に控え、いつまでも実験助手ばかり続けていられないので、真剣に次の就職のことを考えていた矢先、当時、中央的なサービス機関として、動物実験室があり、そこのスタッフが辞めたので来ないかという誘いがありました。 もちろん、正式採用としての話です。行政職2という現業職員扱いでありましたが、一応、国家公務員に変わりはない。有難くお受けすることにして、4月1日から実験室の管理者として、スタートしました。ここで、国家公務員の職制と実験動物技術者の位置付けについて話しておきます。一般行政職として一と二に分けられ、一は一般事務職員と高度専門機器を取り扱う技術職員、二は守衛、焼却場職員、患者さんのシーツや手術着などを洗うリネン室職員など現業職員が含まれております。実験動物に関係した飼育職員もこうした現業職員として扱われ、私も最初の三年間は行二職員でした。そのうち、色々な資格を取得したので、行一になれましたが、全国の実験動物関係職員は今でも行二のままで定年を迎える人が多いです。職種によって貴賎はありませんが、行一になるまで、同じ職員でも差別的な発言や行動が多く、それは服装にまで表れ、現業職員は作業服で行一は背広ネクタイ姿か白衣着用というのが一般的なスタイルでした。私は実験助手の頃から白衣を着用して仕事をしていたので、行二になっても白衣で仕事をしておりましたが、それだけで、生意気な奴とレッテルを貼られたこともあります。まして、注射器を持ったりしていると医者の物真似と揶揄されましたし、今でもそのような雰囲気を残している大学もあると聞いてます。 このような体制では自分より下位に属する者に対して、強く出ますが、上位に対してはものも言えない雰囲気で、頂点となる医者は雲の上の存在であり、行一の職員に対しても行二の職員はへつらうしかありませんでした。 そのストレスを発散するため、行二の新参者に対して横柄な態度を取ったり、反発することが出来ない飼育動物に当たったり、常に自分より下位の者に目線を向けている現業職員が多かったのも当時の実態でした。 実験室の管理者としてのスタートは掃除から始まりました。当時の実験室は旧結核病棟の3階にあり、手術用の部屋が2室と麻酔などを行う処置室、レントゲン撮影の現像室としての暗室が1室、管理室として3畳くらいの部屋あり、机がひとつ置かれていました。それ以外には屋上にはプレハブで作られた術後回復室と言う名の犬用ケージが4台置かれている部屋がありました。この建物の地下は遺体安置室兼解剖室と霊安室、それに職員用の風呂場があり、いつも線香の匂いが充満しておりました。エレベーターもないので、実験用の犬を運ぶ時はスロープ状になっている通路を専用運搬車で運んでいました。 実験室管理と言えば聞こえは良いですが、毎日が掃除の明け暮れでありました。最初の日に各部屋を見て驚きました。確か、床はタイル張りなのにそれが見えないのです。長年、放置されていたのか、動物の排泄物が折り重なってこびりついています。窓ガラスは壊れ、発泡スチロールで目張りをしてあるし、手術用の無影灯も血だらけです。研究者はこのような環境の中で長靴を履いて実験していました。実験助 手をしていた部屋も相当なものでしたが、ここはまるで便所だと思いました。とにかく、環境の改善から始めることにして、タイル張りであることの確認作業から進めて行きました。ヘラで汚物を掻き取って、壁や機器に飛び散った血液をふき取り、何とか格好がつくまで数ヶ月要しました。徐々に掃除の要領を覚え、実験用の機器操作とメンテも出来るようになるまではさらに長い時間を要します。スライド(当時の全体図、 屋上犬舎、術後回復室、術後回復室2、手術実験室) 実験室の管理もようやく慣れて来たある日、私にとって生涯、忘れることの出来ない人との出会いがありました。 この人が私のHPでご紹介している、英国人アニマルテクニシャンのアンであり、私の実験動物福祉活動の草分け的存在になった人です。 ![]() 以下「カタカナの墓碑」参照 スライド(アンの顔、墓碑、墓碑2、形見、研究棟、生理研全図、生理研入り口、術後回復室、屋上犬舎、患者さんからの手紙) このアンの物語については私のHPに詳しく書かれているので、ご興味のある人は是非、見て下さい。 その後、私は医学部から現在働いている歯学部に異動しましたが、念願の日本一の施設も完成したし、次はマイナーと呼ばれている学部で頑張ろうと、気持ちも新たに引越ししました。ところが、実験動物福祉を実践して来た私にとって、歯学部ではそんな機会を与えるどころか、一切、動物関係から手を引かなければならない状況に陥ったのです。これは10年以上続きました。空白の10年で私は技術も知識も衰えることを恐れ、密かに研究者とタイアップして、仕事外の時間帯に実験のお手伝いと言う名目で、動物室に出入りしたのです。もちろん、学会や研究会には出席して、近況は理解しておりました。その原因をこの勉強会で話すことは関係者に迷惑をかけることにもなりますので、詳細は避けますが、動物福祉に理解の無い人が何人か居たとだけお伝えしておきます。 その後、上司も替わり、理解ある教授の元で動物実験室を含む、中央研究室の実務的な管理者として、認めて頂き、復帰することになりましたのはつい、最近のことです。昨年、日本レスキュー協会さんから、講演依頼を受けた時に、私が承諾出来たのも、この教授が了承してくれたからです。 わたしのHPのエッセイにも書いてありますが、職場環境と言うのは、如何に上司の理解が必要かと言った一例です。医学部の時も率先して私が動物福祉の啓蒙活動をして来れたのは、理解ある、実力者の研究者が私の周りに何人も居たからです。 いいかげんな実験で動物が苦しんでいる所を発見した場合、私からその研究者にクレームをつけても、一切、言い返さず、素直に従ってくれたのはそう言う背景があったからです。ですから、国立大学と言う大きな組織の中で、一技術者の立場で動物福祉を実践するには必ず味方をつけると言うことが何よりも必要であると、学ばせて頂きました。これは現在、一般の方で動物福祉活動をされている方にも言えることです。 最終目的は同じなのに、運動形態が違うからと言って、仲間割れしたり、他の団体を批判したりしていては、目的を達することは不可能でしょう。また、対角線にいる我々動物実験の側の人間に対しても全部が鬼畜のような人間であると思っている方もいらっしゃいますが、決してそうではないと理解して頂きたいのです。 今、実験動物界は揺れてます。これまで、当たり前だと思っていた実験も見直さなければならないと考える研究者や、何とか生体に替わるモデルの開発やコンピューターシュミレーションなどを駆使して、出来るだけ使用動物の削減に努力している研究者もいます。 私の勤務する歯学部でも全国に先駆けて、実験犬を日本レスキュー協会さんに貰って頂きました。 放置していたら、いずれ、処分しなければならない犬です。僅かな処置を受けただけで、殺すのは可哀想という理由で、何年もケージ内で暮らしている犬もいました。 今回話題のゆきちゃんもそんな犬を親として、生まれて来ました。恐らく、入所した時から妊娠していたのでしょう。4頭の兄弟とともに、ケージ内で生まれ、処分するに忍びない飼育管理人の手で、二年間育てられました。しかし、昨年末に実験動物犬と言えど、狂犬病予防法に基づいて、処置されていない犬は早急に処分するようとのお達しがありました。 これは岐阜県で活動している動物愛護団体が「全国の大学に居る犬はまったく狂犬病のワクチンを投与していない」と騒いだ結果だと言うことが後で判明しました。私は断腸の思いで、処分することにしましたが、何とかこの中の一頭でも助けて貰いた いと言う思いで、日本レスキュー協会の大山理事長に相談したのです。 ゆきちゃんの兄弟以外に8頭の雑種犬がいました。何度もレスキュー協会の職員が来て、全部を助けたいと努力してくれましたが、結局、このゆきちゃんだけに留まってしまったのです。 トレーナーも悩んだと思いますし、私も悩みました。どの犬も罪も無くこのような環境に連れて来られ、病気でもないのに処分されるのです。恐らく、この中にはかつて、人間に飼われていた犬もいたでしょう。 どういうルートで入って来たか判らないけれど、最初は凶暴だった犬も飼育管理人に慣れて、毎日、尻尾を振って、エサのおねだりをする犬ばかりでした。そういう犬を狂犬病の為とは言え、処分せざるを得なかった私の気持ちは恐らく誰にも理解されないだろうと思いました。 外では木枯らしが吹く中、私は飼育室に入り、飼育管理人と一緒に一頭づつ、処置室に連れて来て、眠らせました。麻酔薬の急速投与なので、苦しむことなく、あっという間に倒れ込みます。 最後の犬の処分を終えて、死後硬直の確認をした上で冷凍庫に入れて、飼育管理人と手を合わせました。これまで実験で死んでゆく犬は何度も見ましたが、こんな理由で処分しなければならない犬は初めての経験でした。医学部時代にはラットの人畜共通感染症の問題で死者も出たため、二千匹近い処分をしたこともありますが、その時も辛かったです。 こういった処分は本来、実験犬を入手する研究者自ら処分するものですが、この時はせめて、最後くらいは苦しめないように、私の手でしてやりたかったのです。 ゆきちゃんは12頭のうちの一頭です。たまたま、運良くレスキュー協会さんに貰って頂いた犬ですが、そのことについて、私のHPでも良かったねとかラッキーだと言ってくれます。私も他の11頭のぶんまで幸せになって欲しいと願っていますが、この手で処分したその時の情けない気持ちを考えると、もろ手を上げて良かったとは言えないのです。それが本当の気持ちです。ゆきちゃんに続いて、今年、一頭のビーグル犬を新潟 の方に貰って頂きました。 これも、研究者から殺すのは忍びないので、佐藤さんのお力でどなたかに貰って頂けませんか?と要請されたものです。今は、ハッピーという名前を付けてもらって田園で走り回っているらしいです。正直言って、実験犬の譲渡先を探すのはためらいがあります。でも、狭いケージで一生暮らす犬のことを思うと、例え、一頭と言えども、助けて欲しいと言うのも本心です。恐らく他の動物実験施設の関係者の中にはよけいなことをしてと批判している人もいるでしょう。私の大学の中にもいるかも知れません。特に国立機関ではこれまで、前例の無いことをしようとすれば、必ず反対意見が出ます。今回はたまたま、私の傍に理解者がいたので、可能でしたが、これからもこのようなケースが一般的になるとは思いません。本来は例え、元実験犬でも、セラピードッグとして、役に立つと言うことを示さなければならないのですが、それには多くの障害が立ちはだかって来ると予想されます。科学者の中には専門家であるぶん、社会的な動きには疎い方もおられます。国際的な動物福祉の流れの中で、どう言うように対応してよいかわからない方もおられるでしょう。日本では私のような存在はまだ、異端児扱いされます。 しかし、いつか私のして来たことが理解される時代が来ると信じてます。実験動物だけでなく、ペットや野生動物保護の問題も含めて、今、頑張っておられる方は決して諦めずに、啓蒙活動を続けて頂きたいと思います。 ご清聴、有難う御座いました。 ![]() ![]() 記念撮影。」 |