ペットからコンパニオン・アニマルへ
今やペットはコンパニオン・アニマルと呼ばれ、人生の伴侶として大切な存在となっています。 また、アニマル・セラピー(動物介在療法)の効果も近年大変注目されていて、例えば、高齢者や障害者が、動物とふれあうことで、ストレスや孤独感を癒やし、精神的にも安定し、生きがいや責任感を与えられるといいます。 また、受刑者たちがペットを飼うことで、早く社会に復帰できるともされています。アメリカの刑務所では、アニマル・シェルターに収容された犬を受刑者たちが訓練し、介助犬に育て上げるといった画期的な試みも行われています。 ![]() * プラーナはこう考える 「言葉に表われる動物への意識」 ペットという言葉は「しもべ」とか「愛玩」というイメージがあり、人間主体の主従の言葉のように思えてなりません。最近では、コンパニオン・アニマルという表現がされるようになりましたが、「コンパニオン」とは接待するという意味合いがあり、これも主従の感のある言葉であることには変わらないように思えます。むしろ、「パートナー」といった言葉の方が、より適切なのではないかと思います。 人間は今まで、動物を下等なものと決め付けてきました。 「畜生」という言葉がありますが、もともとこれは、梵語のtiryak(=人に飼われるもの、つまり家畜)であったのが、中国に入り漢訳されたものです。 日本に入り、広く鳥獣虫魚の総称として使われる一方、「けだもの」「人に値しない」といった蔑む言葉に変わっていきました。例えば、相手を罵る時に「ちくしょう!」と言ったり、「畜生にも劣る」というように、侮辱の言葉として現在は使われることが多いようです。元々仏教から発したこの言葉が、動物を蔑む言葉になっていったのは、釈迦の教えを誤って解釈した仏教の最大の罪であり、今もなお大なり小なり日本の仏教界にも動物を汚れたものと見る風潮が残っているのは残念な限りです。 言葉は生き物です。その時々の人々の感情や思想が色濃く反映されているものです。日本人が過去長い歴史の中で、動物をどう捉えてきたのか、この「畜生」という言葉が顕著に物語っているように思えてなりません。 日本に限らず世界でも、長く動物は感情を持たない生き物として捉えられてきました。しかし、近年、動物にも人間に劣らぬ豊かな感情があると少しずつ理解され始めたようです。(今だ認めようとしない人々の方が多いかもしれませんが)その傾向を受けて「コンパニオン・アニマル」という言葉が「ペット」に変わり出て来るようになりました。これは大きな前進であり、ある意味、人類の意識革命とも言える評価に値する動きです。しかし、それはまだ、「コンパニオン」つまり、人を癒してくれる接待役として価値を認められたに過ぎず、本当の意味で、動物を含め生命あるもの全てが、その生の重みを対等に認められた訳ではありません。 まだまだ、道のりは遠いのかもしれませんが、せめて、言葉だけでも、対等という意味合いのある「パートナー」を使ってもらえるようになれば良いなあと思います。 言葉が生き物であるのなら、使うことにより、実際に現実を引き寄せてくれるかもしれませんから・・・ |